アイデンティティの持ち運び――つまり、あるサービスで積み上げた「自分」の情報を、別のサービスにもそのまま引き継げること。これは、インターネットが本来持つべきだった機能であり、いまだに実現していない機能でもある。
もともとウェブは「オープンで、つながっていて、ユーザーが主役」という思想で設計された。自分のデータや評判、人間関係を持ち歩きながら、好きなサービスを自由に行き来する。それが理想だった。しかし現実はどうか。新しいサービスを使うたびにゼロからアカウントを作り直し、今使っているサービスから離れることは、長年かけて築いたデジタル生活を捨てることと同義になっている。
この「持ち運べない」コストは計り知れない。サービスの乗り換えが事実上不可能になることで、競争は歪む。個人データは何十もの独自システムに散らばり、アイデンティティを握るプラットフォームと、それに依存するユーザーとの間に大きな力の差が生まれる。アイデンティティの持ち運びは、単なる便利機能ではない。個人がプラットフォームに従属しないデジタル経済をつくるための、構造的な前提条件である。
囲い込みは「仕様」である
アイデンティティが持ち運べないのは、技術的なうっかりミスではない。意図的な競争戦略である。主要プラットフォームはいずれも、「ユーザーが離れない」「離れられない」ことを前提にビジネスモデルを築いてきた。
たとえばSNS。Facebookから別のサービスに移りたいと思っても、友人とのつながり、写真、投稿、長年のやり取りで蓄積された文脈を失うことになる。GDPRの下でプラットフォームが提供を義務づけられているデータ書き出し機能は、他サービスが取り込めない形式のファイルを吐き出すだけだ。データを持ち運ぶ権利は法律上は存在するが、実際には機能していない。
LinkedIn(ビジネスSNS)も同様である。10年分のスキル評価、推薦文、つながりの履歴は、他のプラットフォームに移せない。LinkedIn上で築いた仕事の顔は、LinkedIn所有のデータにほかならない。ユーザーは「家主」ではなく「借り手」なのである。
Amazonの出品者評価、eBayの信頼スコア、Etsyのレビュー。ECサイトにおける商業的な評判も、長年の信頼構築の結晶であるにもかかわらず、プラットフォームを離れた瞬間に消えてなくなる。
この囲い込みこそが、ユーザーが不満を抱えていても独占が持続する最大の理由である。「離れるコスト」が「留まるコスト」を上回る限り、選択の自由はない。アイデンティティの持ち運びは、このバランスを是正する仕組みにほかならない。
持ち運びに必要な3つの要素
真のアイデンティティの持ち運びを実現するには、3つの要素が必要である。データ、評判、そして資格情報。それぞれ異なる層で機能し、固有の技術的課題を抱えている。
データの持ち運びとは、投稿、写真、メッセージといったコンテンツ、友人リストやフォロワーの関係、購入履歴や利用記録などの個人データを、互換性のある形式で書き出し・取り込みできることを指す。現状のデータ書き出し機能は単なるアーカイブの域を出ない。本当に必要なのは、別のサービスがすぐに統合できる「生きたデータ」である。
評判の持ち運びとは、あるサービスで築いた信頼を、別のサービスでも活かせることだ。たとえば、あるフリマアプリでの五つ星評価が、別のマーケットプレイスでの信頼判断の材料になるべきである。あるコミュニティでの誠実な活動実績が、新しいコミュニティでも認められるべきである。そのためには、標準化された評判の形式と、サービス横断での検証の仕組みが不可欠だ。
資格情報の持ち運びとは、専門資格、学位、スキル認定など、検証済みの証明をどんな場面でも提示できることだ。W3C(ウェブ技術の標準化団体)が定めた「検証可能な資格情報」の規格は技術的な土台を提供しているが、まだ広くは普及していない。
Web3が示す解決策
ブロックチェーンを使ったアイデンティティの仕組みは、この問題に対する構造的な回答を提示している。その核心は、アイデンティティをアプリケーションから切り離すことにある。アイデンティティが暗号鍵に紐づき、誰でも参照できる共有の台帳に記録されれば、それは本質的に持ち運び可能になる。どのアプリも、ユーザーに新しいアカウント作成を求めることなく、同じアイデンティティ情報を読み取れるからだ。
これは、Web3の世界ではすでに当たり前になっている。ウォレットアドレスひとつで、すべての分散型アプリケーションをまたいで完全な取引履歴を持ち歩ける。Aave(レンディングサービス)での貸し借りの実績は、Compound(別のレンディングサービス)からも確認できる。あるDAO(分散型の自治組織)での投票参加は、別のDAOからも検証可能だ。NFTのコレクション、トークン残高、取引記録。これらは特定のアプリではなく、ウォレットとともに移動する。
ENS(Ethereum Name Service)は、これをさらに使いやすくする仕組みだ。人間が読める名前をウォレットアドレスに紐づけ、そのアドレスからオンチェーン上のあらゆる実績にたどり着ける。メインで使うDeFiアプリを変えても、同じENS名と同じウォレット履歴がそのまま引き継がれる。
Lens ProtocolやFarcasterといったプロトコルは、SNSにおけるアイデンティティの持ち運びを実証している。Lensでは、フォロワー、投稿、やり取りといったソーシャルデータがブロックチェーン上に保存され、Lens上に構築されたどのアプリからもアクセスできる。あるクライアントから別のクライアントに乗り換えても、データは失われず、人間関係も途切れない。アイデンティティがアプリではなくプロトコルに属しているからだ。
まだ残る溝
とはいえ、Web3内のアイデンティティの持ち運びにも限界がある。Ethereum上で構築されたアイデンティティは、SolanaやCosmosでは自動的に認識されない。異なるブロックチェーン間をつなぐプロトコルは登場しつつあるが、シームレスとは言いがたい。
より深い溝は、オンチェーン(ブロックチェーン上)とオフチェーン(ブロックチェーン外)の世界の間にある。ウォレットはDeFiの取引履歴やNFTコレクションを持ち運べるが、雇用経歴、学歴、政府発行の身分証明は持っていない。この溝を埋めるには、オフチェーンの事実をオンチェーンの証明に変換してくれる、信頼できる発行者が必要だ。技術的な統合だけでなく、既存の制度の協力も欠かせない。
Polygon ID、Civic、Worldcoinなど、この溝に異なるアプローチで挑むプロジェクトがある。それぞれがプライバシー、検証の確実さ、使いやすさの間で異なるバランスを取っている。このうちどれが広く採用されるかが、アイデンティティの持ち運びの実際の姿を決めることになる。
規制の追い風と競争の変化
珍しいことに、規制の流れがWeb3の掲げる「ユーザー主権」と同じ方向を向いている。EUのGDPRはデータの持ち運びを法的権利として確立した。デジタル市場法はさらに踏み込み、指定された大手プラットフォームに実効性のあるデータ持ち運びツールの提供を義務づけている。EUのeIDAS 2.0規制は全EU市民にデジタルIDウォレットの提供を義務化し、資格情報の持ち運びのための公的インフラを整備しようとしている。米国でも、オープンバンキング規制や医療データの相互運用ルールを通じて、分野ごとの持ち運び要件が生まれつつある。
アイデンティティの持ち運びが実現すれば、デジタル市場の競争は根本から変わる。ユーザーが自分のアイデンティティを失わずに離脱できるなら、プラットフォームは囲い込みではなくサービスの質で勝負しなければならなくなる。これこそが、既存のプラットフォームが持ち運びに抵抗する理由であり、「期待」ではなく「義務」として推進しなければならない理由でもある。
Web3のエコシステムはその先例を示している。アイデンティティの持ち運びが標準であるDeFiの世界では、競争は激しく、ユーザー本位だ。プロトコル同士が金利、機能、安全性で競い合っているのは、ユーザーがアイデンティティと資金を自由に動かせるからにほかならない。
まとめ
- アイデンティティの持ち運び――サービスを横断してデータ、評判、資格情報を持ち歩くこと――は、ユーザーとプラットフォームの力関係を正すための欠けたピースである
- プラットフォームの囲い込みは偶然の産物ではなく、独占を維持するための意図的な戦略である
- 真の持ち運びには、データ・評判・資格情報の3つが連動して機能する必要がある
- Web3はウォレット、ENS、プロトコルレベルのソーシャルデータを通じて、すでにアイデンティティの持ち運びを実現している
- 異なるブロックチェーン間の壁と、オンチェーン・オフチェーンの溝が、包括的な実現への主な障壁として残る
- EUや米国の規制の流れが、持ち運びを後押しする法的枠組みを形成しつつある
アイデンティティの持ち運びは、ニッチな技術的話題ではない。競争的なデジタル市場、ユーザーの主権、真のデータ所有――これらすべてが立脚する土台である。技術は存在する。標準は整いつつある。規制の意志も育ちつつある。残されているのは、より困難な普及の仕事だ。プラットフォームに門戸を開かせ、アイデンティティの持ち運びを「理論」から「現実」にするためのインフラを、ユーザーの手で築くこと。それが問われている。